第17回なら学研究会
※ 狭川氏は1920年奈良県生。96歳。1932年に東大
日時・会場
- 【日時】2017年2月6日(月)14時〜
- 【場所】奈良女子大学文学系N棟201教室
参加記
今回のなら学研究会は、
研究会では以前から、奈良大和の知的・文化的文脈において、
今回その第一回目の試みとして、
東大寺の歴史、そして学園のお話、お水取りのお話・・・。
第17回なら学研究会
※ 狭川氏は1920年奈良県生。96歳。1932年に東大
今回のなら学研究会は、
研究会では以前から、奈良大和の知的・文化的文脈において、
今回その第一回目の試みとして、
東大寺の歴史、そして学園のお話、お水取りのお話・・・。
ずっとお借りしていた澤田家所蔵の澤田四郎作旧蔵資料返却のため、澤田家にお邪魔しました。撮影画像データもお渡しし、大阪大谷大学澤田文庫調査の進捗、遠野市立博物館での調査のことをお伝えしました。澤田さんは「おじいちゃんは」と昔を思いだしながら、宮本常一や岸田定雄をはじめとるす人たちの訪問が絶えなかったころのことを話しておられました。文献をとおしてしか知らない我々にとっては貴重な証言です。
澤田さん宅には数度お邪魔いたしましたが、そのたびにご馳走をいただきます。以前お邪魔したときはショートケーキ、今回はいちご大福。みな澤田さんお手製のものです。どれも美味でした!!!
貴重な資料をお貸しいただいただけでなく、いつも美味しいご馳走をありがとうございます。また、本研究へのご理解とご配慮、あらためて御礼申し上げます。
トップの画像は、ヤフオクで入手した『五倍子雑筆』4・5号(昭和11年7月)。澤田四郎作編集発行の個人雑誌で、こうした雑誌運営がのちの近畿民俗へとつながっていくのだと思われます。方々に配布していたようで、架蔵のものは「後藤貞夫」宛。後藤は大分出身で、『大分昔話』などの共単著があります。卒論口述試験が終わったら、同誌の所蔵調査と配布先の確認に行ってこよう。メモメモ。
【日時】2017年1月30日(月) 9:00〜 ※追記:終了は2月2日(木)
【場所】大阪大谷大学図書館
【参加】寺岡・磯部、小林写真工業
大阪大谷大学所蔵澤田文庫の撮影が始まりました。図書館の演習室をお借りしての撮影です。澤田四郎作に関する貴重な資料が多数あるなか、今回は、澤田のパーソナルな側面を検討するための資料——日記や書簡、切り抜きなど——を撮影します。
資料の撮影にご協力いただいた大阪大谷大学と小林写真工業さんに御礼申し上げます。
本研究(学内プロジェクト経費)では、澤田の人脈や交流をとおして〈知〉の結節点としての澤田四郎作を浮かびあがらせようとしていますが、さて、可視化にはどのような方法があるでしょうか。
国文学研究資料館の「近代書物流通マップ(β版)」のように、GoogleMaps上に人を配置していくのもひとつの方法です。
あるいは(私たちの技術はさておき)、Gephiなどを使って点と点を結び、交流の多寡を線の太さで示すなどリゾーム的に表現するというのも面白そうです。
どのようにしてネット(網)ワーク(ありよう)を紙上や画面上で表現するか、面白そうな話し合いになりそうです。
※ 画像は、小林写真さんの「簡易撮影部屋」(移動式撮影所とも)。こちらに作製例が載っています。欲しい、、、。
【講師】喜夛隆子氏(歌人)
【演題】やまと國中に住んで
【日時】2016年12月26日(月)14時〜
【場所】奈良女子大学文学系N棟、N339教室
【参加】10名
講師の喜夛隆子氏は前登志夫に師事された歌人。前氏の民俗学への関心に共感し、大和國中(くんなか)の民俗を見つめてこられました。大和郡山市額田部地区での生活とまなざしは『わたしの額田部』(創芸出版、1988年)に結実しましたが、消えゆく習俗の記録は、暖かくも冷静なまなざしと奥行きのある語り口とも相俟って高い評価を得、『日本民俗誌集成14巻 近畿編(2)三重・奈良』(三一書房、1998年)に収録されるに至りました。『わたしの額田部』を「発見」した浦西勉は、『日本民俗誌集成』の解題で次のように述べています。
喜多隆子氏は、大阪府堺市から旧家、喜多家に嫁いで来て、大和の習慣には様々な意見を持っておられたようだが、それをこのような形で文章化されるまでにその習慣を身につけたことになる。大和の主婦は、家を守り、村を見つめ続け、子供を育て、先祖を守り、田畑を守ること自体が民俗なのである。それは、家刀自として重要な意味があることを知らしめるのである。あえて、複雑といって良い程、 村のつきあい、親戚のつきあいが、この社会には生きている。この地方の民俗は、実は一過性の民俗調査では理解できぬものが多く実の多いものにはならず、そこに住みついて何年も経験を積まなければ、おそらく五百年以上連綿と続く家や土地の習俗は理解されないものなのである。ここに『わたしの額田部』の民俗資料としての意味がある。(p.672)
外から嫁いで来たゆえに持ちえた「外部の眼」と、実際にそこで生活しているゆえに持ちえる「内部の眼」とが 融合した同書は、消えゆく習俗やことばに対して、ノスタルジックになるわけでもなく、声高に保存(アーカイブ)を叫ぶわけでもありません。『わたしの額田部』で喜夛氏は次のように述べています。
年々、生活様式も変わり、使われなくなって、忘れ去られるものも多くなるのは、当然のことだし、言葉も万葉以前の昔から、現代まで変化してきたように、今後も変化しつづけるであろう。しかし現代は、その変化が加速度的に速くなっているように思う。二、三代前の人が、いや親が使っていた言葉でさえ、辞引で意味を調べなくてはわからないものも出てくるかもしれない。そして外来語を含めて新しい言葉はどんどん増えるだろう。しかし、共通語であれ、方言であれ、美しい日本語はずっと子孫に伝わってほしいと願う。(pp.106-107)
同書を読み、今日のお話をうかがいながら、消滅も発生もふくめて変わりゆくさまを記述していこう、そうした変化とともにあろうという「覚悟」を感じました。
【講師】沢井啓祐氏(JITSUGYO会長)
【演題】明治期奈良の印刷業
講師の沢井啓祐氏は、奈良の印刷会社JITSUGYOの会長。
明治期奈良の印刷業の実態についても調査をされており、貴重な文献もお持ちです。今回は、これまでの調査結果をふまえた報告をしてくださいました。
なお、画像右隅の七重の小塔は、百万塔のうち一万基ごとにつくられた一万節塔!!! 百万塔というと三重小塔を思い浮かべますが、これははじめて見ました。
【日時】2016年11月23日(祝・水)14時~
【場所】奈良女子大学文学系S棟、S126教室
【参加】8名
遠野市立博物館所蔵澤田四郎作資料の調査。澤田四郎作宛柳田国男書簡や近畿民俗学会での柳田国男の講演原稿等を閲覧・撮影。柳田のセルフポートレート絵はがきに、寺岡ともどもしばし圧倒される。これもまた柳田の「方法」なのだろうか。柳田自身による柳田の権威化、偶像化。(トップ)アイドルとしての柳田国男。これに萌えあがり舞いあがり、やられてしまった青年知識人も多かったはずで、本研究会が追いかける澤田四郎作もその一人なのであった。
今回のお目当ては、澤田四郎作宅への来訪者が名前や歌を書きつけた芳名録。澤田四郎作といえば、この芳名録と調査カード(現在は大阪大谷大学澤田文庫所蔵)が引きあいにだされることが多いが、芳名録はいまのところ遠野市立博物館が所蔵する一点のみが現存している。
柳田国男や宮本常一ほか在朝/在野を問わず多くの人たちが澤田家を訪ねていて、芳名録からは「知」の結節点としての澤田四郎作のすがたが浮かびあがってくる。澤田の人脈やメディエーター的役割については佐藤健二『柳田国男の歴史社会学―続・読書空間の近代―』(せりか書房、2015)がすでに指摘するところで、大阪民俗談話会が澤田四郎作の自宅から始まったことと「場」―空間・広場・広がり―の学問としての民俗学の相関を見る。
近畿民俗学会の前身たる大阪民俗談話会は昭和9年末に始まるが、澤田が終生敬愛してやまなかった柳田の木曜会もまたおなじころに始まっており、澤田が目指したのがそこなのかどうか、またその同質性と異質性、澤田四郎作のプロデュース手腕等は、なら学研究会の課題となるところであることも、今回の調査であらためて確認できた。かの芳名録も、のちに一年分をまとめて製本したのだろう、箔を散らした見返し紙や布クロスの表紙に麻生路郎(wikipedia)による「奇縁壱年」墨書題簽が貼付されていて、これが単なる名寄せではなく自身のもっとも大事とするものであったことを示している。彼のネット(つながり)ワーク(機能)に、資料をとおしてどこまで迫れるだろうか。
貴重な資料の閲覧・撮影を許可くださった遠野市立博物館に、御礼申し上げます。
遠野に降りたったのは初めてのこと。花巻空港からレンタカーで移動したが、『遠野物語』 序文にいう、
花巻より十余里の路上には町場三ヶ所あり。其他は唯青き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道の石狩の平野よりも甚だし。或は新道なるが故に民居の来り就ける者少なきか。
(明治43年。国立国会図書館デジタルコレクション)
を目の前にみるごとく、家がまばらにあった。コンビニもスーパーマーケットの影も見えず、いったいどこで買いものをしているのだろうなどと俗な疑問を同僚と交わしながら、遠くまでひろがる風景のなかを運転する。
夜は夜で遠野名物のジンギスカンとどぶろくを堪能。美味絶品也。脳と目と舌と胃がフル回転の調査であった。
附馬牛の谷へ越ゆれば早池峰の山は淡く霞み山の形は菅笠の如く又片仮名のヘの字に似たり。
『遠野物語』のこの一節が好きでどうしても早池峰山を見たかったのだが、ふもとから見あげる早池峰の山は、大きくそびえたつ山そのものだった。