なら学研究会

奈良女子大学なら学研究センターのワーキンググループ「なら学研究会」の活動報告。奈良の研究史・研究者の回顧・再評価をおこなっています。

【20】岡島永昌:保井芳太郎のコレクション形成とその背景

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平成29年度 第20回なら学研究会

【講師】岡島永昌氏(王寺町教育委員会

【演題】保井芳太郎のコレクション形成とその背景

会場等

【日時】2018年2月24日(日)13:30〜

【会場】奈良女子大学文学系N棟N339教室

【参加】7名

開催文

今回は、奈良・大和の代表的な古物・古文書蒐集家、保井芳太郎についてです。近代奈良・大和の研究において、こうした蒐集家のネットワークや足跡の重要性が、最近注目されるようになってきています。水木要太郎がその代表格とされますが、保井の存在はこうした人々や、大和の郷土史研究ネットワークとどのようにつながっていたのか。

参加記

大和古瓦と保井芳太郎はセットになるくらい著名な人物です。

おそらく最初は趣味的なものだったのでしょうが、天沼俊一や水木要太郎ら研究者との出会いが保井の蒐集に方法論を持ち込むことになり、自身の営為に研究という補助線ができるようになったとのこと。けれども保井は集めたものを秘匿することなく、自宅で古瓦の展示会を開いたり、誰彼の研究のために惜しみなく貸し出したりしていたそうです。

保井の古物・古文書蒐集にみられる郷土性とアカデミズムの両面を岡島氏は指摘しましたが、こうした態度は「蒐集家」とか「コレクター」といった言葉には収まりきらない性質のように思います。保井の古瓦蒐集は、近世から続く旧家で地元の素封家という自身の出自と、自ら村史を編もうとして史料を集めていた叔父の存在がきっかけにあるようですが、そうした来歴が背景にあるのでしょうか。私たちなら学研究会では澤田四郎作のプロデューサー・メディエーターとしての側面を考察してきましたが、澤田のそうしたあり方ともどこか違うようにも思います。

どのようなワードでもって彼を評価しうるのか。保井芳太郎はとても興味深い存在になりました。

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澤田四郎作研究に関する臨時研究会

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パンフレット執筆者による、澤田四郎作研究の今後についての臨時打ち合わせをおこないました。

今後、研究会としてなにができるのか、なにをおこなうべきなのか。「奈良」を多面的に検証すべく、澤田のコンテクストに名前がでてくる水木直箭、高田十郎、田村吉永などの存在の重要性とアプローチについて討議しました。

彼らが表象する「奈良」は、画家や小説家たちが「奈良」を発見していくのとどう関わってくるのでしょうか。おなじ時空間にある両者の相関、ありやなしや。

澤田四郎作旧蔵資料(大阪大谷大学澤田文庫)、北村信昭コレクション(奈良大学)、東洋民族博物館や県立図書情報館などが所蔵する種々の資料群がつながったときに見えてくる風景を立体的に解明・公開すること。研究会の趣旨を再確認した3時間でもありました。

【19】中野重宏:奈良尾花座と奈良の人・町・映画

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平成29年度 第19回なら学研究会

【講師】中野重宏氏(ホテルサンルート奈良・会長)

【演題】奈良尾花座と奈良の人・町・映画

会場等

【日時】2017年10月29日(日)13:30〜

【会場】奈良市史料保存館、ホテルサンルート奈良

【参加】12名

開催文

今回は、奈良で映画館・ホテルを経営してこられた中野重宏氏(1928年生まれ)がこのたび自叙伝『奈良の尾花座百年物語』を出版されました。中野氏は、奈良の町・文化・映画・観光についての貴重な語り部です。ちょうど奈良町の資料保存館で尾花座(芝居小屋時代)の展示がおこなわれていますので、その展示見学とあわせて、中野氏にその半生を語っていただきます。

参加記

今回のなら学研究会は奈良町を会場にして行われました。

台風接近というあいにくの天候、一次会場の奈良市史料保存館に集合した頃は、風雨ともに強まったときでした。悪天候にもかかわらず大学教員(他大学含む)、奈良女の学生、学芸員の方、郷土史に興味のある方、情報誌編集者など、多彩な顔ぶれ集まってくれました。

館内では、尾花座(芝居小屋)時代の史料や閉館(映画館への転業)を伝える新聞史料などを見学しました。岩坂氏がまず概要説明をした後、参加者がそれぞれ持っている知識を紹介しながら史料を説明しあうという学び合いの時間となりました。尾花座に残されていた多数の奉献額は大変見応えがあり、その時代の芸能史の一端をありありと伝えるものでした。

その後、雨のなか、ホテルサンルートに移動し、ここから参加するメンバーを加えて第二部が始まりました。本日の話者である中野重宏氏は非常に記憶が明晰な方で、参加者の様々な質問にたいして、とても詳しく、わかりやすく話してくださいました。とくに芝居小屋時代から映画館開館への時期について、そしてホテルサンルートが立地する菩提町の当時の様子について、たくさんのやり取りがありました。奈良の町で映画館が活況であった時代、また芝居から映画へと移り変わる風景が目に浮かぶようなお話でした。

澤田四郎作『育児と民俗』(抜き刷り、昭和38年)

奥付なし。表紙に「保健(昭和38年1月〜12月)別冊/育児と民俗/近畿民俗学会長 沢田四郎作」、裏表紙に「武田薬品工業株式会社/大阪市東区道修町2丁目27番地」。

著述目録によれば、昭和38年1月の『保健』113号から同年12月の124号まで「グラビヤ育児と民俗」を連載しており奈良女子大学なら学研究会編『澤田四郎作年譜・著述等目録』ver.1、p.15、それをまとめたもののようである。ただし、奥付のないことからすると、市販されたものではなく、澤田が方々へ配布するために「別冊」として作成した/してもらった抜き刷りと思われる。前出の『年譜・著述目録』にこの「別冊」は採録されていない。

もくじ
  1. 解説文は澤田。タイトル後の括弧内に写真撮影者を記す。他書掲載の写真使用は「他書」とした。
  2. ノンブルなし。1テーマ3ページで、白ページもカウントして括弧内に記す。

ゆりかご(鎮谷和夫、保仙純剛、他書) ・・・・・・ (1)

産小屋(澤田四郎作、上井久義) ・・・・・・ (5)

子蒸し(三村幸一、他書、保仙純剛) ・・・・・・ (9)

人工栄養(撮影者・出典不明) ・・・・・・ (13)

頭髪(辻阪喜兵衛、西谷勝也) ・・・・・・ (17)

抱き方(他書、澤田四郎作カ) ・・・・・・ (21)

墨をぬる(澤田四郎作カ、鎮谷和夫、三村幸一) ・・・・・・ (25)

歩み(他書) ・・・・・・ (29)

食初め(他書、鈴木昭英、田中新治郎) ・・・・・・ (33)

宮参り(澤田四郎作カ、他書) ・・・・・・ (37)

産衣と背まもり(他書、三村幸一) ・・・・・・ (41)

歯(野間吉夫、他書) ・・・・・・ (45) 

澤田四郎作編『柳田國男先生』(近畿民俗学会、昭和37年)

奥付は次のとおり。

昭和三十七年十二月二十五日発行/編輯者 澤田四郎作/印刷者 余部安 豊中市庄内西町五丁目二三/発行者 近畿民俗学大阪市西成区玉出本通一丁目一三

同書は近畿民俗学会誌『近畿民俗』31・32合併号(1962/S37.2)を単行本化したもの。口絵写真も含めて内容に変わりはない。

口絵写真「五倍子居の芳名録にかゝれた柳田先生の歌」は、昭和十年十月二十七日に澤田宅訪問の際に柳田みずからが記したもの。この芳名録は現在、遠野市立博物館が所蔵する。「みゝつくの林かくれの/しのひねをわかには/とりのあさわらふこゑ/柳田國男/昭和十年十月二十七日夕」。

龍谷大学図書館花岡文庫は、かつて吉野の大淀高校に勤めていた花岡大学の旧蔵書であるが、同文庫所蔵のものに「花岡大学様恵存 澤田四郎作」(前付遊び紙、万年筆書き)の献呈署名がある。

はじめに

 日本民俗学の生みの親柳田國男先生は本年米寿を迎へられ、五月三日、北は北海道から南は沖縄まで、真に日本全土からはるばる上京して来た弟子たちに圍まれて、長寿の祝福をお受けになられたが、図らずも八月八日午後一時二十分、成城の御自宅で急逝せられた。新紙の報道によると政府は閣議で、先生に正三位勲一等旭日大綬章を贈ることを決議し、天皇陛下は霊前に御供物を下賜せられたと俳聞する。

 先生は誠に百年不世出の偉大な学者であった。いま先生を失った事は、日本国民全般の大きな損失であるが、長い間先生の教を受けた、近畿地方居住のわれわれにとっても、先生の思ひ出はまた一入である。

 昭和九年頃から数次に渉る先生の御西下で、同学の士と結びつきの機会が与へられ、学問を共同に展開してゆくことを教へていたゞいた。先生は即ち近畿民俗学会の生みの親でもあった。

 親を亡くすると子供達は、親への思ひ出が限りなく湧いて来る。かうした各自の気持の凝りかたまったのが即ち本書である。執筆して戴いた方々は、近畿民俗学会の会員や、近畿民俗学会に特別の関係ある、いはゞ身内の方々のみで、その配列は私の手許へ届いた原稿の到着順によった。この小編を先生の御霊前に捧げ、常へなる御冥福を祈念するものである。

  昭和三十七年十二月二十日深夜

                 澤田四郎作

もくじ

口絵

 ○奈良観音院での柳田先生

 ○三笠宮殿下を迎えた第四回民俗学会年会の柳田先生

 ○奈良観音院で長谷川如是閑氏らとの柳田先生

 ○五倍子居の芳名録にかゝれた柳田先生の歌

はじめに(澤田四郎作) ・・・・・・ 3

柳田国男自伝  ・・・・・・ 1

柳田先生の人と学問(楳垣実) ・・・・・・ 6

武蔵野を案内されて(森口奈良吉) ・・・・・・ 9

書かれた史料の問題(田岡香逸) ・・・・・・ 11

伝承ー歴史教育(酒井忠雄) ・・・・・・ 12

思い出のかず〴〵(保仙純剛) ・・・・・・ 13

柳田先生と飯田(奥村隆彦) ・・・・・・ 15

戦いの頃のお葉書(鈴木太良) ・・・・・・ 16

柳田先生の思い出(沢田四郎作) ・・・・・・ 17

伊良湖歌人磯丸のことなど(加藤三郎) ・・・・・・ 34

大阪民俗談話会が生まれた頃(桜田勝徳) ・・・・・・ 36

姫路での講演から(高谷重夫) ・・・・・・ 38

九州旅行随伴記(平山敏治郎) ・・・・・・ 39

柳田国男先生訪問(逸木盛照) ・・・・・・ 47

柳田先生のことども(西谷勝也) ・・・・・・ 48

先生から頂いた悔み状(笹谷良造) ・・・・・・ 50

浅見氏への来書(橋本鉄男) ・・・・・・ 52

思い残すこと(中野荘次) ・・・・・・ 53

柳田先生と大和と(水木直箭) ・・・・・・ 54

けんぱ梨(太田幸子) ・・・・・・ 57

燈台だった柳田先生(小寺廉吉) ・・・・・・ 59

懐徳堂(鈴木東一) ・・・・・・ 61

柳田先生と伊勢(倉田正邦) ・・・・・・ 61

吉野での先生その他(岸田定雄) ・・・・・・ 64

焼けた先生の原稿など(鷲尾三郎) ・・・・・・ 68

侍訓首尾(竹田聴洲) ・・・・・・ 69

方言集覧稿のことなど(大田栄三郎) ・・・・・・ 73

柳田先生と観音院(上司海雲) ・・・・・・ 74

木地屋の話など(橘文策) ・・・・・・ 76

「盆と行器」以後(五来重) ・・・・・・ 77

案山子など(横井照秀) ・・・・・・ 80

女性と民俗学(山口最子) ・・・・・・ 82

民俗学とは(小谷方明) ・・・・・・ 84

先生ののこしたもの(宮本常一) ・・・・・・ 85

祖母のことなど(横田健一) ・・・・・・ 87

「郷土研究」の頃(田村吉永) ・・・・・・ 88

失われた手紙(柴田実) ・・・・・・ 88

柳翁載路(山田隆夫) ・・・・・・ 90

柳田先生と紀州(雑賀貞次郎) ・・・・・・ 92

柳田先生と北条(河本正義) ・・・・・・ 94

『豌豆』のことその他(後藤捷一) ・・・・・・ 95

澤田四郎作『日本生殖器崇拝概論』(私家版、大正11年5月)

澤田四郎作にとって最初の刊行物になる。澤田が「生殖器崇拝」に興味をもったのは、六高時代にあったらしい。

六高時代はマンドリンをやったが、どうしたことからか人魚の伝説に興味を持ち、文献など漁っていた。寮生活で東北出身の三浦義路(東京瓦斯重役)から道祖神を話をきかされたのが動機となって、この方面に熱中してしまった。澤田四郎作「柳田先生の思い出」、『近畿民俗』31・32合併号、近畿民俗学会、1962.12)

道祖神のような生殖器崇拝の実際については、たとえば澤田家に遺されている、六高を卒業した大正10年からの『道祖神調査資料』などの分析を待ちたい。

大正十一年ころに大阪の古書店天牛書店で同書を求めた水木直箭は、のちに同書を次のように紹介している。

ぴんく色の表紙で、赤く三角に切り抜いた西瓜の中に、髪を振り乱した裸形の女が跪いて、両手を合せて拝んでゐる姿が描かれてゐる。後で聞くと、この本は珍本になつてゐるやうである。沢田君は、あなやうな、あちらこちらからの抜き書き見たいなもので、著作になるものと当時考へてゐたことが若気の至りで恥しいとて、未製本のものなど焼き棄てゝ了うたさうで、私がそれを所蔵してゐることを余り嬉しがらない風であった。

(「沢田君との出会ひ」、『沢田四郎作博士記念文集』、沢田四郎作先生を偲ぶ会、1962、p.71)

澤田からすれば興味の範疇でおこなったものゆえの「恥し」さなのであろうが、同書扉に「この小著を郡山中学・大阪医科大学・第六高等学校時代の旧友に捧ぐ」とあって、その興味を支えてくれた澤田の人的環境あっての書物でもあった。

さて、この書物の刊行について、「私が民俗学に入るまで―後藤氏の学恩―」後藤捷一『祖谷山日記』、大阪史談会、1962)に次のようにある。

大正十一年五月、私は母のへそくりをねだって、石神に関する小著を印刷した。五百部註文したのに二百部だけしか印刷してをらず、製本も十冊あまりであとはそのまゝであった。当時法学部の学生だった蓮井平一君(後に北海道拓殖銀行専務)が大いに法律知識をふりまはして、未成本のものを受けとってくれた。私はその書名をいふのも気恥しくて殆ど燃やしてしまったが、この小冊子が因縁となって、爾来四十年にわたる後藤捷一氏の学恩を限りなく身にうけるに至ったのである。私には忘れられない思ひ出である。

ここでいう小冊子の「因縁」とは次のようなものであった。続きを引用する。

曩日、書庫を整理してゐると、後藤捷一氏がこの小冊子を読まれて、かうした方面の研究には、既に柳田國男先生の『石神問答』や、出口米吉先生の『日本に於ける生殖器崇拝概説』などがある事を教へて下さった手紙が出て来た。この手紙の末尾に、私の亡くなった長兄が赤インクで「これは父の鞄から偶然出て来たが、多分父が心配して隠して置かれたものらしい。今日改めて送るから、後藤氏へ礼状の遅れを何か理由をつけて出しなさい。父はあまり熱中して医学の勉強をやめるんぢゃないかと心配してをられるから、この方はほど??にして医学を勉強する様に」と朱記されてある。大正十三年に Phallus-Kultus といふ個人雑誌(大正十五年第十五号で中止)を出し、後藤捷一氏に教へられた柳田國男先生のもとにお伺ひする事になって、道草ばかり食った私の歩んでゆく道をはっきりと決めて下さったわけである。

『日本生殖器崇拝概論』扉に「東京帝国大学医学部学生 澤田四郎作/日本生殖器崇拝概論」とあるので澤田は東京在であったのだが、後藤が奈良五位堂の実家に手紙を出したのは奥付に理由があった。

大正十一年四月廿五日印刷/大正十一年五月一日 (定価壱円)/著作兼発行者 奈良県北葛城郡五位堂村 澤田四郎作/印刷者 東京市巣鴨町一一六四 吉長五郎/発行所 奈良県北葛城郡五位堂村 澤田四郎作方/発売所 三省堂 文武堂 稲門堂

※枠外に「咬明社印刷所」

先に引用した同書作成状況にあって、奥付刊記「発売所」の「三省堂」「文武堂」「稲門堂」にどれほど流れたのかは分からないが、後藤が同書を手にしたのは寄贈などではなく、自らによる入手によってであったようだ(小売書店等でなのか澤田からの直接入手なのかは分からない)。「訪問控え帖1 無代贈呈の本が四十円に吃驚」(『本』、昭和11年4月10日号)で澤田は次のように述べている。*1

私の処女出版とも云ふべきは大正十年頃、まだ大学の二年に居つた頃だと思ふが『日本性殖器崇拝概論』と云ふのでした。本の題では素晴らしく立派さうに思はれるが、中味は夫れ程のものはなく此の本を一本求めて下すつた奇篤の士が今の後藤捷一君で、君の紹介で、性研究の出口米吉氏を知り、出口氏の旧著を見せて貰つて、自分のものの遥かに及ばない、深い研究が出来てあるのに汗背した事です。

澤田自身による『五倍子執筆目録』大阪大谷大学澤田文庫)によれば、昭和2年11月20日に「柳田国男先生を砧村の書斎に始めて訪問」したとあるが、柳田との交際はそれ以前からあった。たとえば同資料大正15年5月27日条に「北方文明研究会ニ出席。柳田、金田一、桑原、杉山、伊波」とあるほか、大阪大谷大学澤田文庫所蔵『日誌』大正15年12月7日条には、

夜、京橋近くの千代田館内富士見軒の第二回吉右会に列す。会費三円。柳田国男先生、早川孝太郎中山太郎金田一京助、岡村千秋、泉鏡花伊波普猷、中田千畝、今和次郎、有垣喜左衛門、久保栄等の諸氏を始め二十七八名。柳田先生の吉右会の由来を簡単に述べられr、つゞいて早川氏の三河の田楽とはなまつりの話あり、実物の呈示あり。きつちよむ話から説話分類法に関する意見をきかる。

などとある。記録から見るかぎり、柳田と知り合いになったのは大正15年頃のようであるが、そのきっかけとなったのが澤田の最初の刊行物である本書であった。

※2017年11月29日追記

大阪大谷大学澤田文庫所蔵本に「呈 詩人石川道雄兄 著者」(ペン書き)の献呈署名あり。
装丁は洋紙くるみ装で、磯部架蔵のボール表紙とは異なる。表紙の意匠は同じ。
前付、架蔵本では序文の前に挿入されている「著者小照(大正九年五月中旬撮影)」が澤田文庫本には見られない。脱落欠損か、それとももともとなかったのか、詳細は不明。

序文(原文のママ)

 一九二一年の秋、余病を得て、病院生活を送る事二旬有余、漸く病癒えて故里に帰り、専ら病後の保養につとむ。終日、無為、語る友なし。淋しきまゝに、日頃余暇を求めて、研究し来りし資料の空しく、塵中に委せられあるを思ひてその整理を始む。爾来こゝに二箇月、漸く第一回の整理を了る。即ち之なり。

 惟ふに、生殖器崇拝たるや、人類創生の昔、太陽崇拝と共に、人類の二大信仰たりき。洋の東西を問はず、文化発達の程度を論ぜず、之をあらゆる民族の上に求むべく、遺物遺跡は、人類学、考古学、宗教、歴史学上の研究と相倚つて、之を照明すべし。

 巴里ルーブル博物館、伊太利ネーブル市の王立博物館の一部、ポンペイの遺跡を訪れんか、世界創生以来の生殖器の信仰の遺物を眼前に見るに及んで、首肯すと云ふ。

 げに、燦然たる希臘の文化は、フアリコスより発し、深遠なる印度文明は、リンガより生ぜり。

 由来、生殖器崇拝の研究たるや、人類学、考古学、宗教、歴史学上に密接なる関係を持し、文化の発達に伴つて変化し来つた、思想の流動を知る上に必要なるものなり。

 然りと雖も、世人之を看過一顧せざる者多し。余茲に思考する所あり。且は、迷信者の覚醒を促さんとして、この小著を公にす。

 雄々しき信念に鞭たれ、図書館にありては、広く文献を漁り、余暇を求めては、単身その遺跡を訪ね、土地の長老を訪ねて、その伝説に耳を傾け、遺跡をカメラに収め、或は遺物の蒐集に志せり。

 猛夏、長里を抜渉して薄暮人家にたどり着き、一夜の宿を乞へる事もありき。

 余、茲に、日本生殖器崇拝を記述せしと雖も、元より非才その器にあらず、誤謬又多からん事を恐る。願はくば、博学の諸兄の御教示を垂れ給はん事を乞ふ。

 余、これを機とし、大阪医科大学、第六高等学校時代より研究し来りし、「人魚の伝説」「毛髪の伝説」「迷信の研究」「合図の研究」「呪の研究」「文身の研究」「飲酒」の資料を整理し、順次公にせんとす。茲に諸君の援助を乞ふ。

 終りに、この書を公にするにあたり、畏友九州帝国大学学生橘亮吉、同田中実、東京帝国大学学生森本猛夫、京都帝国大学学生鎌野忠雄、同村田定、第六高等学校生徒村山重忠の諸兄及間接直接の便宜を与へられし諸彦の好意を感謝す。

 大正十一年一月 梅咲く故里にて/著者しるす

例言

  例言

□高等学校時代から蒐集し来つた資料を纏めたのが是である。元より完成されたものではない。他日之を完成補足するつもりである。この未完を公にする厚顔無恥を咎めず、諸君の一顧を賜はらば幸甚の至りである。

埃及、印度、諸蛮族の生殖器崇拝も文献によりて多少研究せしも、都合によつて之に言及しなかつた事を謝す。

□自己の撮影蒐集せし資料可なりあるも全部之を公開し得ないのは遺憾である。こゝに掲載せしはその一班である。

□本書を出版するについて、いろ〳〵奔走してくれた畏友、東京帝国大学学生森本猛夫君、資料の蒐集については、米沢源三郎氏に感謝して止まない。

  大正十一年一月

もくじ

序 ・・・・・・ 1

(目次) ・・・・・・ 1

緒論

 創生人類の驚異 ・・・・・・ 1

 宗教と性慾 ・・・・・・ 5

 諸民族の生殖器崇拝 ・・・・・・ 10

本論

 性的神話と生殖器崇拝 ・・・・・・ 13

 仏教渡来と生殖器崇拝 ・・・・・・ 19

 現代の生殖器崇拝 ・・・・・・ 54

 信仰の変遷 ・・・・・・ 60

 陰陽石 ・・・・・・ 74

 結語 ・・・・・・ 79

附録

 性的神祠巡り ・・・・・・ 1

 性的神話 ・・・・・・ 17

 朝鮮の生殖器神 ・・・・・・ 20

 大男根の伝説 ・・・・・・ 22

 百大夫 ・・・・・・ 24

 陰茎包皮切断 ・・・・・・ 26

*1:澤田四郎作談話筆記。大阪大谷大学澤田文庫所蔵のスクラップブック『澤田四郎作文集1』貼付の記事による。

【18】松田度:岸田日出男の遺したもの_大淀町岸田家所蔵資料から

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平成29年度第1回なら学談話会・第18回なら学研究会

【講師】松田度氏(研究グループ「吉野の会」代表・奈良県大淀町教育委員会学芸員

【演題】岸田日出男の遺したもの_大淀町岸田家所蔵資料から

会場等

【日時】2017年7月30日(日)14:00〜

【会場】N339教室(奈良女子大学文学系N棟3階)

【参加】20名

開催文

地域の方と「奈良」についての学びを深める、なら学談話会を開催します。

奈良・大和研究、研究者の回顧・再評価をおこなっている、なら学研究会を兼ねて実施します。

今回は吉野熊野国立公園の指定に尽力し、各地の民俗調査を行った岸田日出男(1890-1959)についてです。

近年、存在の知られることとなった岸田氏の旧蔵資料類(貴重な映像を含む)について、その整理・検討にあたっておられる松田度氏にお越しいただき、資料から伺われる岸田日出男についてお話いただきます。

参加記

岸田日出男のことは『吉野風土記』や澤田四郎作の関係で名前は知っていたけれど、彼の知的背景をうかがい知れる貴重な旧蔵資料が遺っているのは、初めて知りました。

整理・検討をはじめたところとのことで詳細はこれからということですが、吉野や奈良を多角的に検証する可能性を秘めているということで、研究の進展がとても待ち望まれるところです。

今回は大正11年(1922)の「吉野群峰」(内務省衛生局)や昭和12年(1937)ころの「熊野路」(鉄道省)など、貴重な記録映画フィルムを見ることができました。時期は違うけれども、あの『吉野葛』の同時代世界をこの目で見られるとは。。。感動。冒頭の画像、紋付きを羽織っている剃髪の御仁は、大台教会を開設した古川嵩だそうで。。。すごいな。

こうした記録フィルムは可燃性なのだそうで然るべきところで適切に保存しなければならないだけれど、奈良県内にその然るべきところがないのだという。また、簡易デジタルではなく、よりクリアな画像となると越えるべき課題は多いのだそう。今回は、そうしたノウハウについての議論も交わされましたが、デジタル化→現物廃棄という短絡的な意見が跋扈するなか、資料保存がその資料の価値をきちんと見さだめ、それを後世にどう托していくのかという「覚悟」と表裏にあることを、あらためて痛感しました。

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