なら学研究会

奈良女子大学なら学研究センターのワーキンググループ「なら学研究会」の活動報告。奈良の研究史・研究者の回顧・再評価をおこなっています。

【もくじ】澤田四郎作『山でのことを忘れたか』(創元社、昭和44)

昭和4411月刊。著者兼発行者は澤田四郎作、出版元は創元社。書名「山でのことを忘れたか」は、同書に収められた論文のタイトル。

はじめに

 私は明治三十二年五月大和の国中の村の小さな造り酒屋の四男として生まれた。私のあとに赤ん坊が二人も生まれたが、いずれもその日のうちに亡くなったという。そのたびに母乳があまって、私は小学校の二三年の頃まで、学校から帰ると、すぐに母の膝にのって乳をのんでいた。出入の人からもひやかされ、友人とけんかをしたときなども、このことを笑われた。四人兄弟のうち、私がいささかの反っ歯となったのも、こうした長期の哺乳の結果だと気づいたのは、私が小児科医となって、母乳を長期に不規則にのましたり、一日中乳首を吸わしっぱなしの乳児が反っ歯になりやすいことを臨床的に観察しているうちにきづいた事であった。

 女の子がいないので、私は髪を長くのばして頭のてっぺんをまるく剃った所謂おまんがおいてあった。酒倉の裏が鉄路となっていて、よくこの日当たりのよいところで遊んでいたが、汽車が通るたびに倉の中へかけこんで隠れていた。汽車に乗った人から、自分の頭をみられるのがはずかしかったからであった。

 私は幼い頃から、祖母と一緒に寝かされていた。それが中学を卒業するまでつづいた。中学の上級生の頃、なにかのはずみに、この話をすると、友人達は「ドロ作はまだおばんと寝とる」と大いに笑われて、祖母と一緒に寝ることが恥かしくなって、一人で寝たいと申し出て、大いに叱られて、とうとう中学を出るまで一緒に寝かされた。

 その頃は未だ電燈もない頃で、枕元に行燈といって、種油を皿に入れ、これにトーシン二本を浸してあったものにスルビで火をつけて枕元において、祖母が「女大学」や、各地の名所図会などを音読され、私がその小さい聴き手の役を仰せつかっていた。トーシンのさきに煤がたまり火が暗くなってくると、その煤を落し、トーシンをかきたてて、火を明るくするのが私の役目であった。雪の日に筍を掘って母にたべさしたというビンシンキの話は、文字を忘れたが、今でも記憶に残っている。いろいろの名所図会の本といろいろとくりかえし、くりかえしきかされ、その挿図などを見て、祖母の説明を熱心にきき入ったものであった。

 こうした読みものが、学者でもない私の家にどうして沢さんあったかというと、酒屋では、毎年土用のまえに「火入れ」ということをやっていた。まえの年の終りまえから蔵人達がやってきて酒作りの準備をし、二月三月ごろに醸し出すと、家の入口に大きな笹竹を一本立てていた。こうして作られた酒は三十石とか四十石という大きな酒樽に入れておくが、毎年土用近くなると、この酒を大きな釜で、ぐるぐるふっとうさせて、規定のサルチル酸を入れて、もとの大きな酒樽にもどして保存をする。このとき樽と蓋の空隙を、和紙をふのりでまぶしてみがき鯡のような形にしたものでめばりをした。このメバリの材料は和紙でなければならないので、乳はどこからか、この和本は古証文などの反古をたくさん買って来られ、これを祖母の居間にうず高く積みかさねてあったのを、祖母は、毎晩、このうちから引き出されて音読して、私にきかしてくれられた。

 こうして、私は幼い頃から、今日の民俗学の対象となる事象にふれるようになったが、そのうちには、ある寺から出た反古に、いろいろの証文の類があったが、私は字が読めないので、束にしてめばりの方へまわし一見もしなかったが、今から考えると、誠におしい事をしたものと思い、また、こうした貴重な前代の資料を破棄していた事は、誠に申しわけのない事をしたものと感じている。いろいろの昔話もたくさんきいていたが、子供の頃から、くいしんぼうの私は、再三かまはでをやった。これは、食べ物をたべすきて嘔吐や下痢をやることをいうので、そのうちに赤痢にもかかり、腸チブスにも罹り、頭の毛がすっかり抜けてまる坊主にもなって、記憶力が悪くなり、たくさんきかされた昔話も大半が断片的に私の記憶に残っているので、これを省いて記録したのが「大和昔譚」という小冊子であった。

 大正六年三月、私は奈良県立郡山中学を卒業した。兄定介がその頃入学していた大阪府医科大学予科に入学した。これは後の大阪帝国大学の前身で、公私立の医科大学の出現のはしりであった。映画がすきで、一日に二館を見る事もあった。此頃は目玉の松ちゃんのチャンバラ映画で、洋画では「まもる影」とか「ドロテーア」などの洋画が記憶に残っている。お蔭で三月末には落第。すっかりいやになり、七月高等学校の入試を受験する気になって、通学しながら、こっそり受験勉強をしていた。

 その頃は専門学校は四月が新学期始めで、高等学校だけが九月であった。その頃はまだ高等学校が、東京・仙台・京都・金沢・熊本・岡山・鹿児島・名古屋の八高校しかなかった時代で私は瓢箪山のおみくじによって、西の方がよいというので、大阪に一番近い六高三部を志願し首尾よく入学が出来て岡山に行った。一年間は寮生活で中寮九室に入室、二年からは操山の麓の農家の農具小屋の二階や賄屋の二階で下宿をした。山形出身の三浦義路(後の東京電気重役)が、私の異状のないことをベッチョないという方言を使うと、彼は腹を抱えて大笑いし、各地の方言に興味をもつ動機となり、関西地方ではみられぬ信仰や行事の話を各地出身の寮友からきくに及んで、幼い頃の祖母の話が思い出され、祖母からきいた話を改めて整理したいと念じたが、故郷を訪れる日がなく、そのままになった事は、今でもおしい気がしてならない。

 図書館で人魚の話をあつめたりしたのもこの頃であったが、これを学問的に整理する事は知らなかった。文学書をよんだり、外国文学の翻訳をしきりに読み、小説などを書いて、同室の村山重忠に見せたら、彼は腹をかかえて笑ったので癪にさわり小説はやめて詩を作り出したが、また笑われるといやなだから人には見せなかった。

 大正十年四月東大医学部に入学、ラテン語の暗記と解剖屍体臭の悪臭にへきえきして、講義にあまり出ず、千葉・茨木(ママ)・甲斐・相州の近村を歩いて石神信仰に熱中、石川道雄の文学グループと行き来して日夏耽之介(ママ)先生を訪ねた。その頃、考古学者として有名になっていた森本六爾氏を奈良の高田十郎先生の紹介状をもって訪ね、三輪善之助、坪井良平、榧本杜人、谷川盤雄氏等の研究会に出席、森本氏の古墳発掘につれて行ってもらったり、東京人類学会の千葉県の採集旅行について行ったり、鳥居竜蔵博士の講演会には、よく出かけたが、これも高田十郎・田村吉永先生のすすめで、大正の終りに、その頃作っていた雑誌を東京の柳田国男先生に送り、先生からおハガキを戴き、それ以来、先生からいろいろの会合へお誘いして戴き、また先生の講演会はのがさず聴講していたが、亡母の思いでの小冊子「ふるさと」の序文を書いて戴くため砧村の先生の所載を訪ねたのは昭和二年十二月であった。先生は「ははこ草」の一文を書いて下さった。

 こうして、私は民俗学を自分の一生の学問にしようと決心したのであるが、中学時代からの希望だった細菌学の研究(大正四年郡山中学発行の『御大礼紀念 私の希望』には、近村のペスト騒ぎを見て医者になりたい事をかいている)も捨てきれず、大正十五年三月大学を卒へると、竹内松次郎先生の黴菌学教室に入れて戴き、祭日や日曜は近県を歩き、古本屋漁りをしては民俗学に関係の文献をしきりに集めていた。

 教室にいること四年、新しい病原菌の発見の少年時代の夢をすてて、栗山重信先生の教室に入れて戴き、小児科学を専攻しながら、日曜を利用して近県を歩いていたが、昭和六年、開業をしながら、自由に採集旅行をしようと決心して、教室を辞して、この玉出で小児科専門の開業医に踏み切ったが、開業の第一日にただ一人ヒキツケの幼児がやって来た。手当をして帰したが、その後の経過がどうなったかと半日も家を留守にする事の出来ぬことに気がつき、漫然と半月診察、半月採集と考えていた自分の誤りに気がついた。病院勤と開業医のちがいが即日にして思い知らされ、僅かに日曜の半日を近県を歩くことによって自分を慰めていた。いろいろの聞き書や採訪を書いて、年賀郵便に代えて知友に送っていた。

 東京の柳田国男先生から、関西にいる民俗学徒のたくさんいることと、その氏名を教えて戴いた。宮本常一桜田勝德、岩倉市郎岩田準一の諸氏は、当時はすでに、いろいろの論文を発表せられていて、名だけは早くより承知していた方々であったが、こんなに身近に在住していられるとは全く知らなかったが、これを動機に昭和九年、宮本常一・小谷方明・鈴木東一・南要・杉浦瓢君などと、浜寺の海の家で会合して、大阪民俗談話会を発足したが、適当の会場がないので、玉出の五倍子居で行なって来た。その頃は、宮本博士は未だ独身時代で、よく一緒に寝てはおそくまで民俗の話をしたものであった。

 翌十年、柳田国男先生が大阪女子専門学校(現大阪女子大学)においでになり「日本民俗学の提唱」の講演を機に、桜田勝德氏や民俗学を志すいろいろの人々が多く集り、東京から柳田国男先生や渋沢敬三先生が再三御立ちより下され、会合する機会が繁くなって来たが、宮本常一君の縁の下の力持ちは誠に敬服する限りであった。会報と例会通知はすべて自弁の心づくしであったが、例会は順調に進まず、参加者が三、四人ということなどあったが、宮本君と二人で、会員がこの二人だけになっても続けましょうと話し合った事もあった。のちには活版刷の会報を出すようになったが、宮本君が東京の渋さ先生のもとに行かれ、昭和十六年私が招集せられるに及んで、この会報も十九冊で廃止。その後は小島勝治・岸田定雄・持田篤文の諸氏も招集せられ、小島勝治君は中支で戦病死せられてしまったのは、何としても惜しいことであった。

 ながながと六日史の思いでを書いて来たが、戦後の思い出は、こんどは八十才の春を迎えたときに書くことにする。

 この随筆集は、私が今年の五月二十五日の誕生日に家蔵版にして、長い間、いろいろと教示をうけ、また懇意にして戴いた人々に贈りたいと思い立ったもので、丁度その日は、大正十年第六高等学校三部出身の同窓会の大酉会が年一回の集まりを六甲山頂の凌雲荘で一泊したときであった。九集から中村京亮夫妻、三木の伊藤俊一夫妻、豊岡の由利周三夫妻、倉敷の中出捨次郎、四国から安岡赤外、橘亮吉未亡人、大阪の村田定、兵庫の的埜中と私夫妻であった。

 この話が、やがて先輩友人達の手で印刷して古稀の祝に出版してやろうという事になり、全く以て恐縮のきわみのうちに、これを進めて下さった好意に厚く御礼申し上ぐるために、この一文を草した次第である。

   昭和四十四年十月二十五日

                    著者

 

もくじ

まえがき ・・・・・・ 1

食物と呪法

 菱形の餅 ・・・・・・ 2

 赤飯以前 ・・・・・・ 19

 里芋の文化 ・・・・・・ 28

 耳ふたぎ餅 ・・・・・・ 34

 カザのこと ・・・・・・ 39

 戸守の鍾馗 ・・・・・・ 59

 山の神 ・・・・・・ 75

 近畿の民俗 ・・・・・・ 92

 日本人と奇数 ・・・・・・ 115

創生と民俗

 山でのことを忘れたか ・・・・・・ 126

 マノフイカ考 ・・・・・・ 139

 太陽から姙む話 ・・・・・・ 173

 墓石に子を祈る ・・・・・・ 189

 「通婚せぬ村」によせて ・・・・・・ 201

日本人の身体と病気

 おたふくかぜ ・・・・・・ 210

 疱瘡神 ・・・・・・ 216

 はじかみの話 ・・・・・・ 221

 二重瞼 ・・・・・・ 227

 耳たぶの穴 ・・・・・・ 230

 日本人のヘソによせて ・・・・・・ 233

 幼児の頭髪 ・・・・・・ 243

 混血児 ・・・・・・ 249

動植物の方言と民俗

 渡来植物の方言と民俗 ・・・・・・ 256

 庵羅樹 ・・・・・・ 264

 優曇華 ・・・・・・ 272

 旅の餞別と刀豆 ・・・・・・ 279

 山茶の葉巻きとそれから ・・・・・・ 305

 やどりぎ ・・・・・・ 310

 百日紅 ・・・・・・ 313

 うごうご ・・・・・・ 318

 羊の話 ・・・・・・ 323

民俗採訪余録

 大和月ヶ瀬雑記 ・・・・・・ 328

 大島紀行 ・・・・・・ 334

 京の一日 ・・・・・・ 341

 山梨県東南部の道祖神 ・・・・・・ 345

 神奈川県津久井郡内郷村の道祖神 ・・・・・・ 359

 戸倉峠 ・・・・・・ 376

師友追憶

 柳田国男先生 ・・・・・・ 448

 渋澤敬三先生の思い出 ・・・・・・ 452

 折口信夫先生と私 ・・・・・・ 458

 あしびの花小林存翁 ・・・・・・ 464

 半銭子の思い出 ・・・・・・ 466

 長靴の紳士 ・・・・・・ 470

 真鍋清明君の憶い出 ・・・・・・ 477

 震災綺談 ・・・・・・ 484

著者略歴・刊記