奥付は次のとおり。
昭和六年十月廿五日印刷/昭和六年十月廿九日発行/〔非売品〕/編輯発行者 大阪市西成区玉出本通一丁目十二番地 澤田四郎作/印刷者 奈良市般若寺町廿一番地 八田徳治郎/印刷所 奈良市般若寺町廿二番地 奈良文化学会印刷部 電一、一〇四番
菊判くるみ装。「祖母満八周年忌記念」の一書。内題「大和昔譚/医学博士 澤田四郎作」。参考として澤田四郎作自序も掲載する。
もくじ
1 あみだ橋 ・・・・・・ 1
2 ホーケントウ ・・・・・・ 1
3 腰折田 ・・・・・・ 2
4 ハツトサン ・・・・・・ 2
5 弁才天 ・・・・・・ 2
6 落雷なきこと ・・・・・・ 3
7 恵心僧都 ・・・・・・ 3
8 ハガミ ・・・・・・ 3
9 鯰地蔵 ・・・・・・ 4
10 弘法井戸 ・・・・・・ 4
11 縁切り橋 ・・・・・・ 4
12 お菊虫 ・・・・・・ 5
13 鉄道敷設 ・・・・・・ 6
14 黒船と教へ歌 ・・・・・・ 6
15 牛肉 ・・・・・・ 6
16 秋祭りとエソ ・・・・・・ 6
17 神かくし ・・・・・・ 7
18 ウシノトキマヰリ ・・・・・・ 8
19 乞食と墓地 ・・・・・・ 8
20 コテガヘシ ・・・・・・ 8
21 ワシノメンジヨ ・・・・・・ 9
22 神様と行き合ふこと ・・・・・・ 9
23 ワシノコトヤナイガ ・・・・・・ 9
24 ナスビノ北枕 二とこチシヤ ・・・・・・ 9
25 養子いぢめ ・・・・・・ 10
26 ジヤン〳〵火 ・・・・・・ 10
27 すなかけばゝ ・・・・・・ 10
28 主 ・・・・・・ 10
29 蛇を指さす ・・・・・・ 11
30 竈 ・・・・・・ 11
31 熊野鯖 ・・・・・・ 11
32 物売りの声 ・・・・・・ 11
33 猿 ・・・・・・ 12
34 犬 ・・・・・・ 12
35 いたち ・・・・・・ 13
36 鷹 ・・・・・・ 13
37 百舌鳥 ・・・・・・ 14
38 鶏 ・・・・・・ 14
39 雉子 ・・・・・・ 14
40 燕 ・・・・・・ 14
41 狐狸 ・・・・・・ 15
42 狐つり ・・・・・・ 16
43 狼 ・・・・・・ 17
44 手品師の芸におどろきし話 ・・・・・・ 17
45 コメキノキツタン ・・・・・・ 17
46 キチコトママコ ・・・・・・ 18
47 チヤクリガキス ・・・・・・ 19
48 コトシヤミセン ・・・・・・ 19
【参考】自序
私が小学校へ上る頃までは、頭の毛が長くのばされて、頂上が丸く剃つて、俗にいふおまんがおいてあつた。祖母が、孫が四人とも男ばかりだつたので、その末つ子の私を女の子の様にして愛して下さつた心の現れではあつたが、この頭だけは、幼い自分にも迷惑を感じてゐた。家の庫の裏はすぐ鉄道が走つてゐた。汽車が通る度に、酒庫の中へ駆け込んで、じつと隠れてゐた。汽車に乗つてゐる人々に、自分の頭を見られるのが哀しかつたからであつた。
その頃、私は重い熱病にかゝつて、死ぬか生きるかわからなかつた事があつた。祖母は、寝具の上に坐つて、私を抱いたまゝ数日じつと坐つたまま、私を看護して下さつた。私は今でも、自分の子供でも、あれほど真剣にみとりが出来まいと、つく〴〵感じさせられてゐる。
かやうに祖母は、私を大変愛せられ、幼い頃から、中学を卒業するまで、毎晩同じ衾にねかされてゐた。夕飯が済んで、父母や兄弟が火鉢を囲んでいろ〳〵の雑談をせられてゐる頃には、祖母は私を連れて、自分の寝間に横になり、行燈を枕元に近よせて、摂津名所図会や、女大学を音読せられて、私が小さい聴き手の役をつとめさせられるのが常であつた。幼い頃の自分にとつては、これは又たいくつな事であつた。私がたまらなくなつて、小さい悲鳴をあげると、よし〳〵、それでは話をしてやらうとて話されるのが「チヤクリガキス」や「キチコトママコ」の話であつた。いつも〳〵聞かされる話ではあつたが、如何に小さい腹の皮をよぢらせて、笑ひさゞめいたかは、いつも、母上がこの小さい私の声をききつけて、「又、コメキノキツタンやな」と部屋に入つて来られるのが常であつた。こちらでは、とても面白くて、もつと〳〵と、話を追求する頃には、祖母は眠さを覚えられて、枕がはづれ勝ちとなり、話がとぎれ〳〵となつて了ふことが、幼い自分には大変悲しかつた。こういふ時には、大きな声で泣き出すのが私の手であつた。祖母は、よし〳〵それぢや話をしてやろうとて話し出されるのが、おそろしい雷の話、丑刻詣りの話や、「コメキノキツタン」の話であつた。これらの話が始まりかけると、日本一の駄々つ児は、もう祖母の身体にかぢりついて、ぢつと小さくなつて、聞きたし怖ろしいといふ気持に緊張しつつ、いつの間にかすや〳〵と寝てしまふのが常であつた。
中学を卒業するまで、私は祖母の話のきき手をつとめさせられたのであつたが、生意気ばかりの中学生には、祖母の話は、右から左へと通り去るばかりであつたばかりでなく仲間、祖母といつまでも寝かされるといふことが、肩身狭く感じさせられた事であつた。
郡山中学を出て、岡山の高等学校に学ぶ様になつて、始めて他郷に遊ぶ様になつてから、寮の窓にそれ〴〵ふるさのとの昔話を相語る様になつてから、昔語りの興味が私の心に芽ばえて来た。
岡山から東京の大学に学ぶ様になつてから、いろ〳〵の刺激によつて、私の祖母の話された言葉に限りなき愛着を覚えさせられ、暇々に記憶をたどりて書きつけてゐた。故里に帰り、祖母の話を出来るだけ多く書きとめておきたいと熱烈な希望にかられながら、その日を待つてゐたが、遊学する私には、なか〳〵に故郷を訪れ、祖母と共に寝て幼き日に帰る日が来なかつた。
そのうちに、大正十二年の東京の震災となり、その秋十月廿九日には、このなつかしい祖母が病むとはなしに七十六才で逝かれてしまひ、私のこの希望もこゝに中断させらるゝに至つたのである。私は、まへにわづかに書きつけてゐた祖母の物語りの断片を読みかへして見るたびに、少年時代のなつかしい祖母の恩愛を思ひ出しては涙ぐむ日が多かつた。
祖母が逝かれてから、はや八年の歳月が経過した。祖母の腕に抱かれてすや〳〵と眠つてゐた稚な児も、そのふるさとに近いこの地大阪の地に小児科の一開業医として世に立つ事になつたが、折ふしおとづる故郷の家には、はやこのなつかしい祖母や、慈愛にみちた母も在さぬばかりではなく、村そのものにも大きな生長があつた事がよく感じられた。電車が通じ、田圃だつた地域には、知らぬ新しい家がたてられてゐた。青い鼻汁を垂らした村童は、もう一人も見受けられなかつた。家々のしきたりの上にも大きな変化が行はれてゐた。老人がゐる頃は、井戸水の一杯もゆるかせにされなかつた家でも、朝夜に井戸水をどし〳〵かへだしても、もうとがめる人もなくなつてゐた。やかましかつた正月の行事にさへも疎(「疏」を磯部訂正)かにされていゐる様である。すべてのものが信仰から離れて行くのが、今の世の変化であつた。
一は祖母の思ひ出となし、一は、この地に永住する記念として、茲に幼き頃にきかされた話をあつめ、之に故郷の人々から聞いた話を加へて小冊子を作る事としたが、このうちにあつめられた話の提供者も、はや亡くなられた人も尠くない。村の高齢者が相次いで逝くなられてゐる今日に於て、この私の貧しい小冊子も、ただに私の祖母への思ひ出のみとはならぬであらう。
昭和六年九月
大阪玉出の里にて
五倍子誌す