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なら学研究会

奈良女子大学文学部「なら学プロジェクト」のワーキンググループ「なら学研究会」の活動報告。奈良の研究史・研究者の回顧・再評価をおこなっています。

【もくじ】澤田四郎作『ふるさと』(私家版、昭和6年2月)

 奥付は次のとおり。

昭和六年二月十五日印刷/昭和六年二月二十日発行/非売品/編者 澤田四郎作/印刷兼発行者 東京市外西巣鴨庚申塚三二〇 澤田四郎作/印刷所 東京市外蒲田 株式会社三省堂蒲田工場

柳田國男が序文を寄せいているが、この前に「澤田四郎作編 ふるさと方言補遺」(14p)を付した別本が存する。奥付等に違いはない。柳田序文「小序」は『退読書歴』(書物展望社1933)に収録されている。『柳田國男全集』7巻(筑摩書房1998p.269)、『定本柳田國男集』23巻(筑摩書房1964p.68)にも収載。

参考として、澤田四郎作自序および後記を付す。後記署名「贄川虔太郎」は、『五倍子遺歌集 面影』によれば「故日夏耿之介より頂」いたものとのこと。なお、『五倍子遺歌集』は澤田四郎作歿後に後妻の幸が発行した書物1977年)。

もくじ

小序(柳田國男

自序 ・・・・・・ 1

方言 ・・・・・・ 1

言い習はし ・・・・・・ 55

禁厭 ・・・・・・ 71

子供の遊戯 ・・・・・・ 77

駄洒言 ・・・・・・ 99

附録索引 ・・・・・・ 103

後記 ・・・・・・ 129

【参考】自序

 ふるさとの庭にも、とし〴〵の如く、春から夏への静かな流れが感ぜられてゐた。厚い裏白の葉蔭に真紅の玉をみせたグミの熟れ、つや〳〵としたユスラメの実も、爽やかに過ぎゆく初夏の微風に軽く揺れてゐたが、倉の蔭に、無果花(ママ)の実が、気味悪るきまでに、毒々しい青さに、日に日に膨れて行つて、夏草の茂りが、踏む径なきまでに、はびこつてゐた。

 どんな日でも、一度は必ずこの草園を訪れる慣はしであつた母が、ふと五月の中頃になつて、病床に臥す様になつてからは、こゝには、もう元気な花の姿が見られなかつた。生れてから一日とて床に臥すことのなかつた母が、当麻寺の牡丹見から帰つて、急に病まれた消息を見て、今まで想像もせなかつた愁哀に鎖ざされて、忙いで帰省して、母の枕頭に侍した。病ひは発作的に襲ひくる胆石の疝痛であつて、石川医学博士・宮城医学士・兄定介の診察に委ねられてゐた。痛みの発作も次第に軽減し行くを覚えてより、遠からず母の快復の近きを祈りつゝ、帰京して、その訪れの来るのを待つてゐたが、遂には、この淡い希望も、打ちくだかれねばならぬ日が来た。

 母の衰弱ことのほか眼につき、母はもう息しか自由でないやうになつた容態を報じ来つた長兄定司の手紙には、「もう一度よくなつて面白く暮したいと苦しい言葉を聞くと、たまらなく悲しくなります。何とかして栗山先生の許可を得て、母の半生を遠くはなれてゐた君が帰つて来て、最後の介抱をして喜ばしてやつて下さい。孫の顔も見せてやつて下さい」と結ばれてあつた。

 その夕べには、長兄よりの再度の通知が、

「母の生前に、兄弟皆で介抱しておきた。孫全部あつめておきたい。お互ひに中学時代より苦労かけし母に最後の孝養の安心を与へたい。石川博士の診察では、今夏むつかしい」

 とあつて、いよ〳〵母の病ひの篤きを思はねばならなかつた。大阪の兄よりも、心臓のいよ〳〵衰弱せるを報じ、「母は君の成業の妨げとなるをおそれて、知らさぬ様にしておけと申されてゐましたが、今となつては、母の言葉を守るわけには行かぬ、願くは早く先生の許可を得て、一刻も早く母に最後の孝養をつくせよ」と涙ににじんで書かれてゐた。

 私は相次ぐ悲報に、栗山先生に、病院の休暇を乞ふて、その日の急行列車に乗つて、神を念じつゝ馳せ帰つたのであつた。

 悩みあつき母のやつれ給へる姿を見ては、もう眼が熱くなつて、云ふべき言葉さへなくなつてゐた。

「四郎け! よう帰つて呉れたな」

 その声のあまりにも弱々しさに、思はず母の細き手にすがりついた。

 口を通しては、食物はもう全く行かなかつた。僅かに水・果汁のみが通り得るばかりで、日比の滋養灌注を行ふのが、私のつとめであつた。脈搏は次第に細り行き、意識は濁りがちとなつて一家の心ゆくばかりの看護一週間にして、悲しき最後の夜は来た。

 七月四日午後十一時三十分。われ〳〵の懐しい母が六十二歳を一期として、父、四人の兄弟・九人の孫を残して、永遠の旅路に立ち給ふたのである。

 母は同郡磐城村字竹之内村の植田家の長女として生れ、十八歳にして、父のもとに嫁がれて今日に及び、その間に、定司・純一・定介・四郎作の四人の子の母として、私等を養育して下さつたのである。母は一日として臥すことのなかりし健康ではあつたが、乗り物には全く弱かつた。それだけに、汽車や電車に乗る事は、「死ぬ様な苦しみ」であつたため、村を離れることが凡んどなかつた。往年腸チブスを病んで、大阪の大学病院に入院した時なども、この死の苦みをしのんで看護に来さつた母の限りなき慈愛も今は涙の種である。

 母の憶ひ出は、私の終生の憶ひ出である。何か知ら母の憶ひ出を作りたいといふ気持が、日に〳〵強くなつて来た。フト思ひあたるところがあつた。それは、日頃、暇を偸んで書きつけて来た「五倍子雑筆」のうちにある「ふるさとの言葉」(昭和二年)の一篇であつた。一生を通じて、凡んど「ふるさと」を離れなかつた母であつた。そのうちに収めたる言の葉の一つ一つが、すべて母の在りし日言葉であつた。これらを読み返して見る毎におもひ浮べるのは母の面影である。

 人に示すべき心持とて全くなかつた私の雑筆が、今、母の在りし日の紀念となるに至つた悲しき運命をおもひつ、自序に代ゆ。

  昭和六年一月十日

          東京市外西巣鴨庚申塚の寓居にて

            澤田四郎作

【参考】後記

母の記念の小冊子を出すにあたり、柳田國男先生から、序文をいたゞき、種々の教示を賜つた事を述べて、茲に厚く御礼の言葉を申し上げます。この小冊子に収めたる方言は、奈良県北葛城郡五位堂を中心としたるもので、昭和二年頃「五倍子雑筆」第十巻に収めたるもので、大田栄太郎氏編「奈良県方言」を参照し、之に追加したるも、郷里に近き土地の言葉でも、子供の折はききなれなかつた言葉は一切収録せなかつた。謂はば母の在りし日の言葉そのまゝである。

言い習はし、禁厭、子供の遊戯、駄洒れは、「五倍子雑筆」第十二巻のうちから写しとりたるもので、小学校時代からの友人天理外国語学校教授法学士瀧井芳次君の助力があつた事を茲に感謝しておきたい。之を以て後記に代ゆ。

  昭和六年二月一日

             贄川虔太郎識す