【講師】喜夛隆子氏(歌人)
【演題】前登志夫について
【日時】2018年8月19日(日)14:00-16:30
【会場】奈良女子大学 文学系N棟3階 N339教室
【参加】10名
【開催文】
奈良・大和の研究者・研究史を回顧・再評価する、
今回も前回に続き奈良と文学をテーマにします。今回対象とするのは歌人・前登志夫(1926-2008,Wikipedia「前登志夫」)です。
前は吉野郡に生まれました。戦後すぐ詩作を始めたが、
今回は、前氏に師事され、かつ民俗誌の著作もある歌人・
【参加記】
奈良県外に生まれたわたしにとって、奈良は修学旅行で訪れるところであり、「なんと大きな平城京」であり、万葉の地であった。それが縁あって奈良女子大学に着任。ならば、ということで「奈良」を意識しながら谷崎潤一郎『吉野葛』を授業で読み始めたところ、その過程で吉野で発行された花岡大学の『吉野風土記』に出会った。そして同誌の調査で前登志夫の名前を見るに至るのだが、それが原稿不着による空白ページ。だから、わたしのなかで前登志夫は「原稿落とし」というイメージが強い。その後、『吉野紀行』や『森の時間』を読むうちにこのイメージはしだいに薄らいではいったけれど、今日の話は「原稿落とし」を忘れさせてくれるくらいの面白さだった。
前は、自身が住んでいた吉野について、このように述べている。
容易に観光化されていかない吉野に、吉野のおもしろさがあるのではないかとおもう。風景そのものも日本の各名勝より格段すぐれているわけではない。吉野の山河がぼくらに話しかけてくるのは、ぼくらが伝統というかけがえのない経験をもって接するときだけかもしれない。その意味で吉野は、大和に対する吉野という性格を忘れてはなるまい。(前登志夫『吉野紀行 新版』、角川選書145、1984、p.10)
吉野を、山をみずからの居所と見さだめた前の、日々の生活のなかから生まれでてくる言葉が詩や歌になる。
立派な芸術作品をつくろうとして、よい歌の出来ることはまずあるまい。生身の願望がおのずから言葉になるときに歌は出来る。(前登志夫『山河慟哭』、p.301)
前の、そうした芯のようなものが、実は師である前川佐美雄との距離でもあったというのが面白い。前と前川はおなじ奈良に生まれた山持ちではあるが、前が吉野に生まれた山人であるのに対し、前川は忍海の地主の御曹司。だから前は言う。「郷党としての臍の緒はどこかで断ち切らねばならぬ」(『山河慟哭』、p.303)。もっとも、これは師を、師の歌をいかに理解するか、そして自身を、自身の歌をいかに見てもらうかという相互理解に起因するもののようで、前はこうも言っている。
青人草にとって、貴族の憂悶や歓喜というものは、郷党である限りついにわからぬのではあるまいか。地主には百姓の悲しみや歓びもまたわからぬ。(『山河慟哭』、pp.302-303)
喜夛氏は、前の歌集『霊異記』(1972)所収の歌、
さくら咲く その花影の 水に研ぐ 夢やはらかし 朝の斧は
を解釈し、山人にとっての精神の象徴としての「斧」の、その研いだ刃のするどさと、夢のおだやかさ。その二面性をこの歌に見ていたが、いわば表現の歌でもあるこの歌を見ながら、前の、師に対するあのような距離感と愛情とを想起した。
師の前川に就いてみれば、高畑の志賀直哉邸に人びとが集い、志賀帰京後は上司海雲がそれを引き継いだ、まさにおなじ時期に、奈良女子大学の目の前の坊屋敷町にあった前川邸に、志賀や保田与重郎、辰巳利文、塚本邦雄などが参集していたのだという。奈良における人的交流を追求する本研究会からすれば興味深い事例である。
興味深いといえば、前回の浅田氏のご講演でも話題になった奈良の文芸と林業の関係について、前と前川もともに林業に携わる人物であった。それぞれの林業に対する思想信条はともかくとして、そうした人に対する外部の視線や期待というものは、やはり考えていかねばならないことが質疑応答を通して確認された。
最後に。喜夛氏ご所蔵の写真のなかに、書斎のなかの前登志夫を写したものがあった。前を囲んでいるのは、絶妙なバランスで積まれた数多の本ども。前は、前川について、
寒い、古びた十畳の座敷には、鬼の砦のように書籍・雑誌が乱雑に堆い。(『山河慟哭』、p.303)
などと述べているが、喜夛氏いわく、「これは前もおなじ。前は、本の砦の歌の鬼」。