なら学研究会

奈良女子大学なら学研究センターのワーキンググループ「なら学研究会」の活動報告。奈良の研究史・研究者の回顧・再評価をおこなっています。

遠野市立博物館調査

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  • 【日にち】2016年10月29日(土曜)・30日(日曜)
  • 【参 加】2名(寺岡・磯部)
  • 【場 所】遠野市立博物館
調査概要

遠野市立博物館所蔵澤田四郎作資料の調査。澤田四郎作柳田国男書簡や近畿民俗学会での柳田国男の講演原稿等を閲覧・撮影。柳田のセルフポートレート絵はがきに、寺岡ともどもしばし圧倒される。これもまた柳田の「方法」なのだろうか。柳田自身による柳田の権威化、偶像化。(トップ)アイドルとしての柳田国男。これに萌えあがり舞いあがり、やられてしまった青年知識人も多かったはずで、本研究会が追いかける澤田四郎作もその一人なのであった。

今回のお目当ては、澤田四郎作宅への来訪者が名前や歌を書きつけた芳名録。澤田四郎作といえば、この芳名録と調査カード(現在は大阪大谷大学澤田文庫所蔵)が引きあいにだされることが多いが、芳名録はいまのところ遠野市立博物館が所蔵する一点のみが現存している。

柳田国男宮本常一ほか在朝/在野を問わず多くの人たちが澤田家を訪ねていて、芳名録からは「知」の結節点としての澤田四郎作のすがたが浮かびあがってくる。澤田の人脈やメディエーター的役割については佐藤健二柳田国男の歴史社会学―続・読書空間の近代―』(せりか書房、2015)がすでに指摘するところで、大阪民俗談話会が澤田四郎作の自宅から始まったことと「場」―空間・広場・広がり―の学問としての民俗学の相関を見る。

近畿民俗学会の前身たる大阪民俗談話会は昭和9年末に始まるが、澤田が終生敬愛してやまなかった柳田の木曜会もまたおなじころに始まっており、澤田が目指したのがそこなのかどうか、またその同質性と異質性、澤田四郎作のプロデュース手腕等は、なら学研究会の課題となるところであることも、今回の調査であらためて確認できた。かの芳名録も、のちに一年分をまとめて製本したのだろう、箔を散らした見返し紙や布クロスの表紙に麻生路郎(wikipedia)による「奇縁壱年」墨書題簽が貼付されていて、これが単なる名寄せではなく自身のもっとも大事とするものであったことを示している。彼のネット(つながり)ワーク(機能)に、資料をとおしてどこまで迫れるだろうか。

貴重な資料の閲覧・撮影を許可くださった遠野市立博物館に、御礼申し上げます。

その他

遠野に降りたったのは初めてのこと。花巻空港からレンタカーで移動したが、『遠野物語』 序文にいう、

花巻より十余里の路上には町場三ヶ所あり。其他は唯青き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道の石狩の平野よりも甚だし。或は新道なるが故に民居の来り就ける者少なきか。

(明治43年。国立国会図書館デジタルコレクション)

を目の前にみるごとく、家がまばらにあった。コンビニもスーパーマーケットの影も見えず、いったいどこで買いものをしているのだろうなどと俗な疑問を同僚と交わしながら、遠くまでひろがる風景のなかを運転する。

夜は夜で遠野名物のジンギスカンどぶろくを堪能。美味絶品也。脳と目と舌と胃がフル回転の調査であった。

帰途、時間がすこしあったので、早池峰経由で花巻空港へ。

附馬牛の谷へ越ゆれば早池峰の山は淡く霞み山の形は菅笠の如く又片仮名のヘの字に似たり。

遠野物語』のこの一節が好きでどうしても早池峰山を見たかったのだが、ふもとから見あげる早池峰の山は、大きくそびえたつ山そのものだった。

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