なら学研究会

奈良女子大学なら学研究センターのワーキンググループ「なら学研究会」の活動報告。奈良の研究史・研究者の回顧・再評価をおこなっています。

澤田四郎作編『柳田國男先生』(近畿民俗学会、昭和37年)

奥付は次のとおり。

昭和三十七年十二月二十五日発行/編輯者 澤田四郎作/印刷者 余部安 豊中市庄内西町五丁目二三/発行者 近畿民俗学大阪市西成区玉出本通一丁目一三

同書は近畿民俗学会誌『近畿民俗』31・32合併号(1962/S37.2)を単行本化したもの。口絵写真も含めて内容に変わりはない。

口絵写真「五倍子居の芳名録にかゝれた柳田先生の歌」は、昭和十年十月二十七日に澤田宅訪問の際に柳田みずからが記したもの。この芳名録は現在、遠野市立博物館が所蔵する。「みゝつくの林かくれの/しのひねをわかには/とりのあさわらふこゑ/柳田國男/昭和十年十月二十七日夕」。

龍谷大学図書館花岡文庫は、かつて吉野の大淀高校に勤めていた花岡大学の旧蔵書であるが、同文庫所蔵のものに「花岡大学様恵存 澤田四郎作」(前付遊び紙、万年筆書き)の献呈署名がある。

はじめに

 日本民俗学の生みの親柳田國男先生は本年米寿を迎へられ、五月三日、北は北海道から南は沖縄まで、真に日本全土からはるばる上京して来た弟子たちに圍まれて、長寿の祝福をお受けになられたが、図らずも八月八日午後一時二十分、成城の御自宅で急逝せられた。新紙の報道によると政府は閣議で、先生に正三位勲一等旭日大綬章を贈ることを決議し、天皇陛下は霊前に御供物を下賜せられたと俳聞する。

 先生は誠に百年不世出の偉大な学者であった。いま先生を失った事は、日本国民全般の大きな損失であるが、長い間先生の教を受けた、近畿地方居住のわれわれにとっても、先生の思ひ出はまた一入である。

 昭和九年頃から数次に渉る先生の御西下で、同学の士と結びつきの機会が与へられ、学問を共同に展開してゆくことを教へていたゞいた。先生は即ち近畿民俗学会の生みの親でもあった。

 親を亡くすると子供達は、親への思ひ出が限りなく湧いて来る。かうした各自の気持の凝りかたまったのが即ち本書である。執筆して戴いた方々は、近畿民俗学会の会員や、近畿民俗学会に特別の関係ある、いはゞ身内の方々のみで、その配列は私の手許へ届いた原稿の到着順によった。この小編を先生の御霊前に捧げ、常へなる御冥福を祈念するものである。

  昭和三十七年十二月二十日深夜

                 澤田四郎作

もくじ

口絵

 ○奈良観音院での柳田先生

 ○三笠宮殿下を迎えた第四回民俗学会年会の柳田先生

 ○奈良観音院で長谷川如是閑氏らとの柳田先生

 ○五倍子居の芳名録にかゝれた柳田先生の歌

はじめに(澤田四郎作) ・・・・・・ 3

柳田国男自伝  ・・・・・・ 1

柳田先生の人と学問(楳垣実) ・・・・・・ 6

武蔵野を案内されて(森口奈良吉) ・・・・・・ 9

書かれた史料の問題(田岡香逸) ・・・・・・ 11

伝承ー歴史教育(酒井忠雄) ・・・・・・ 12

思い出のかず〴〵(保仙純剛) ・・・・・・ 13

柳田先生と飯田(奥村隆彦) ・・・・・・ 15

戦いの頃のお葉書(鈴木太良) ・・・・・・ 16

柳田先生の思い出(沢田四郎作) ・・・・・・ 17

伊良湖歌人磯丸のことなど(加藤三郎) ・・・・・・ 34

大阪民俗談話会が生まれた頃(桜田勝徳) ・・・・・・ 36

姫路での講演から(高谷重夫) ・・・・・・ 38

九州旅行随伴記(平山敏治郎) ・・・・・・ 39

柳田国男先生訪問(逸木盛照) ・・・・・・ 47

柳田先生のことども(西谷勝也) ・・・・・・ 48

先生から頂いた悔み状(笹谷良造) ・・・・・・ 50

浅見氏への来書(橋本鉄男) ・・・・・・ 52

思い残すこと(中野荘次) ・・・・・・ 53

柳田先生と大和と(水木直箭) ・・・・・・ 54

けんぱ梨(太田幸子) ・・・・・・ 57

燈台だった柳田先生(小寺廉吉) ・・・・・・ 59

懐徳堂(鈴木東一) ・・・・・・ 61

柳田先生と伊勢(倉田正邦) ・・・・・・ 61

吉野での先生その他(岸田定雄) ・・・・・・ 64

焼けた先生の原稿など(鷲尾三郎) ・・・・・・ 68

侍訓首尾(竹田聴洲) ・・・・・・ 69

方言集覧稿のことなど(大田栄三郎) ・・・・・・ 73

柳田先生と観音院(上司海雲) ・・・・・・ 74

木地屋の話など(橘文策) ・・・・・・ 76

「盆と行器」以後(五来重) ・・・・・・ 77

案山子など(横井照秀) ・・・・・・ 80

女性と民俗学(山口最子) ・・・・・・ 82

民俗学とは(小谷方明) ・・・・・・ 84

先生ののこしたもの(宮本常一) ・・・・・・ 85

祖母のことなど(横田健一) ・・・・・・ 87

「郷土研究」の頃(田村吉永) ・・・・・・ 88

失われた手紙(柴田実) ・・・・・・ 88

柳翁載路(山田隆夫) ・・・・・・ 90

柳田先生と紀州(雑賀貞次郎) ・・・・・・ 92

柳田先生と北条(河本正義) ・・・・・・ 94

『豌豆』のことその他(後藤捷一) ・・・・・・ 95

澤田四郎作『日本生殖器崇拝概論』(私家版、大正11年5月)

澤田四郎作にとって最初の刊行物になる。澤田が「生殖器崇拝」に興味をもったのは、六高時代にあったらしい。

六高時代はマンドリンをやったが、どうしたことからか人魚の伝説に興味を持ち、文献など漁っていた。寮生活で東北出身の三浦義路(東京瓦斯重役)から道祖神を話をきかされたのが動機となって、この方面に熱中してしまった。澤田四郎作「柳田先生の思い出」、『近畿民俗』31・32合併号、近畿民俗学会、1962.12)

道祖神のような生殖器崇拝の実際については、たとえば澤田家に遺されている、六高を卒業した大正10年からの『道祖神調査資料』などの分析を待ちたい。

大正十一年ころに大阪の古書店天牛書店で同書を求めた水木直箭は、のちに同書を次のように紹介している。

ぴんく色の表紙で、赤く三角に切り抜いた西瓜の中に、髪を振り乱した裸形の女が跪いて、両手を合せて拝んでゐる姿が描かれてゐる。後で聞くと、この本は珍本になつてゐるやうである。沢田君は、あなやうな、あちらこちらからの抜き書き見たいなもので、著作になるものと当時考へてゐたことが若気の至りで恥しいとて、未製本のものなど焼き棄てゝ了うたさうで、私がそれを所蔵してゐることを余り嬉しがらない風であった。

(「沢田君との出会ひ」、『沢田四郎作博士記念文集』、沢田四郎作先生を偲ぶ会、1962、p.71)

澤田からすれば興味の範疇でおこなったものゆえの「恥し」さなのであろうが、同書扉に「この小著を郡山中学・大阪医科大学・第六高等学校時代の旧友に捧ぐ」とあって、その興味を支えてくれた澤田の人的環境あっての書物でもあった。

さて、この書物の刊行について、「私が民俗学に入るまで―後藤氏の学恩―」後藤捷一『祖谷山日記』、大阪史談会、1962)に次のようにある。

大正十一年五月、私は母のへそくりをねだって、石神に関する小著を印刷した。五百部註文したのに二百部だけしか印刷してをらず、製本も十冊あまりであとはそのまゝであった。当時法学部の学生だった蓮井平一君(後に北海道拓殖銀行専務)が大いに法律知識をふりまはして、未成本のものを受けとってくれた。私はその書名をいふのも気恥しくて殆ど燃やしてしまったが、この小冊子が因縁となって、爾来四十年にわたる後藤捷一氏の学恩を限りなく身にうけるに至ったのである。私には忘れられない思ひ出である。

ここでいう小冊子の「因縁」とは次のようなものであった。続きを引用する。

曩日、書庫を整理してゐると、後藤捷一氏がこの小冊子を読まれて、かうした方面の研究には、既に柳田國男先生の『石神問答』や、出口米吉先生の『日本に於ける生殖器崇拝概説』などがある事を教へて下さった手紙が出て来た。この手紙の末尾に、私の亡くなった長兄が赤インクで「これは父の鞄から偶然出て来たが、多分父が心配して隠して置かれたものらしい。今日改めて送るから、後藤氏へ礼状の遅れを何か理由をつけて出しなさい。父はあまり熱中して医学の勉強をやめるんぢゃないかと心配してをられるから、この方はほど??にして医学を勉強する様に」と朱記されてある。大正十三年に Phallus-Kultus といふ個人雑誌(大正十五年第十五号で中止)を出し、後藤捷一氏に教へられた柳田國男先生のもとにお伺ひする事になって、道草ばかり食った私の歩んでゆく道をはっきりと決めて下さったわけである。

『日本生殖器崇拝概論』扉に「東京帝国大学医学部学生 澤田四郎作/日本生殖器崇拝概論」とあるので澤田は東京在であったのだが、後藤が奈良五位堂の実家に手紙を出したのは奥付に理由があった。

大正十一年四月廿五日印刷/大正十一年五月一日 (定価壱円)/著作兼発行者 奈良県北葛城郡五位堂村 澤田四郎作/印刷者 東京市巣鴨町一一六四 吉長五郎/発行所 奈良県北葛城郡五位堂村 澤田四郎作方/発売所 三省堂 文武堂 稲門堂

※枠外に「咬明社印刷所」

先に引用した同書作成状況にあって、奥付刊記「発売所」の「三省堂」「文武堂」「稲門堂」にどれほど流れたのかは分からないが、後藤が同書を手にしたのは寄贈などではなく、自らによる入手によってであったようだ(小売書店等でなのか澤田からの直接入手なのかは分からない)。「訪問控え帖1 無代贈呈の本が四十円に吃驚」(『本』、昭和11年4月10日号)で澤田は次のように述べている。*1

私の処女出版とも云ふべきは大正十年頃、まだ大学の二年に居つた頃だと思ふが『日本性殖器崇拝概論』と云ふのでした。本の題では素晴らしく立派さうに思はれるが、中味は夫れ程のものはなく此の本を一本求めて下すつた奇篤の士が今の後藤捷一君で、君の紹介で、性研究の出口米吉氏を知り、出口氏の旧著を見せて貰つて、自分のものの遥かに及ばない、深い研究が出来てあるのに汗背した事です。

澤田自身による『五倍子執筆目録』大阪大谷大学澤田文庫)によれば、昭和2年11月20日に「柳田国男先生を砧村の書斎に始めて訪問」したとあるが、柳田との交際はそれ以前からあった。たとえば同資料大正15年5月27日条に「北方文明研究会ニ出席。柳田、金田一、桑原、杉山、伊波」とあるほか、大阪大谷大学澤田文庫所蔵『日誌』大正15年12月7日条には、

夜、京橋近くの千代田館内富士見軒の第二回吉右会に列す。会費三円。柳田国男先生、早川孝太郎中山太郎金田一京助、岡村千秋、泉鏡花伊波普猷、中田千畝、今和次郎、有垣喜左衛門、久保栄等の諸氏を始め二十七八名。柳田先生の吉右会の由来を簡単に述べられr、つゞいて早川氏の三河の田楽とはなまつりの話あり、実物の呈示あり。きつちよむ話から説話分類法に関する意見をきかる。

などとある。記録から見るかぎり、柳田と知り合いになったのは大正15年頃のようであるが、そのきっかけとなったのが澤田の最初の刊行物である本書であった。

※2017年11月29日追記

大阪大谷大学澤田文庫所蔵本に「呈 詩人石川道雄兄 著者」(ペン書き)の献呈署名あり。
装丁は洋紙くるみ装で、磯部架蔵のボール表紙とは異なる。表紙の意匠は同じ。
前付、架蔵本では序文の前に挿入されている「著者小照(大正九年五月中旬撮影)」が澤田文庫本には見られない。脱落欠損か、それとももともとなかったのか、詳細は不明。

序文(原文のママ)

 一九二一年の秋、余病を得て、病院生活を送る事二旬有余、漸く病癒えて故里に帰り、専ら病後の保養につとむ。終日、無為、語る友なし。淋しきまゝに、日頃余暇を求めて、研究し来りし資料の空しく、塵中に委せられあるを思ひてその整理を始む。爾来こゝに二箇月、漸く第一回の整理を了る。即ち之なり。

 惟ふに、生殖器崇拝たるや、人類創生の昔、太陽崇拝と共に、人類の二大信仰たりき。洋の東西を問はず、文化発達の程度を論ぜず、之をあらゆる民族の上に求むべく、遺物遺跡は、人類学、考古学、宗教、歴史学上の研究と相倚つて、之を照明すべし。

 巴里ルーブル博物館、伊太利ネーブル市の王立博物館の一部、ポンペイの遺跡を訪れんか、世界創生以来の生殖器の信仰の遺物を眼前に見るに及んで、首肯すと云ふ。

 げに、燦然たる希臘の文化は、フアリコスより発し、深遠なる印度文明は、リンガより生ぜり。

 由来、生殖器崇拝の研究たるや、人類学、考古学、宗教、歴史学上に密接なる関係を持し、文化の発達に伴つて変化し来つた、思想の流動を知る上に必要なるものなり。

 然りと雖も、世人之を看過一顧せざる者多し。余茲に思考する所あり。且は、迷信者の覚醒を促さんとして、この小著を公にす。

 雄々しき信念に鞭たれ、図書館にありては、広く文献を漁り、余暇を求めては、単身その遺跡を訪ね、土地の長老を訪ねて、その伝説に耳を傾け、遺跡をカメラに収め、或は遺物の蒐集に志せり。

 猛夏、長里を抜渉して薄暮人家にたどり着き、一夜の宿を乞へる事もありき。

 余、茲に、日本生殖器崇拝を記述せしと雖も、元より非才その器にあらず、誤謬又多からん事を恐る。願はくば、博学の諸兄の御教示を垂れ給はん事を乞ふ。

 余、これを機とし、大阪医科大学、第六高等学校時代より研究し来りし、「人魚の伝説」「毛髪の伝説」「迷信の研究」「合図の研究」「呪の研究」「文身の研究」「飲酒」の資料を整理し、順次公にせんとす。茲に諸君の援助を乞ふ。

 終りに、この書を公にするにあたり、畏友九州帝国大学学生橘亮吉、同田中実、東京帝国大学学生森本猛夫、京都帝国大学学生鎌野忠雄、同村田定、第六高等学校生徒村山重忠の諸兄及間接直接の便宜を与へられし諸彦の好意を感謝す。

 大正十一年一月 梅咲く故里にて/著者しるす

例言

  例言

□高等学校時代から蒐集し来つた資料を纏めたのが是である。元より完成されたものではない。他日之を完成補足するつもりである。この未完を公にする厚顔無恥を咎めず、諸君の一顧を賜はらば幸甚の至りである。

埃及、印度、諸蛮族の生殖器崇拝も文献によりて多少研究せしも、都合によつて之に言及しなかつた事を謝す。

□自己の撮影蒐集せし資料可なりあるも全部之を公開し得ないのは遺憾である。こゝに掲載せしはその一班である。

□本書を出版するについて、いろ〳〵奔走してくれた畏友、東京帝国大学学生森本猛夫君、資料の蒐集については、米沢源三郎氏に感謝して止まない。

  大正十一年一月

もくじ

序 ・・・・・・ 1

(目次) ・・・・・・ 1

緒論

 創生人類の驚異 ・・・・・・ 1

 宗教と性慾 ・・・・・・ 5

 諸民族の生殖器崇拝 ・・・・・・ 10

本論

 性的神話と生殖器崇拝 ・・・・・・ 13

 仏教渡来と生殖器崇拝 ・・・・・・ 19

 現代の生殖器崇拝 ・・・・・・ 54

 信仰の変遷 ・・・・・・ 60

 陰陽石 ・・・・・・ 74

 結語 ・・・・・・ 79

附録

 性的神祠巡り ・・・・・・ 1

 性的神話 ・・・・・・ 17

 朝鮮の生殖器神 ・・・・・・ 20

 大男根の伝説 ・・・・・・ 22

 百大夫 ・・・・・・ 24

 陰茎包皮切断 ・・・・・・ 26

*1:澤田四郎作談話筆記。大阪大谷大学澤田文庫所蔵のスクラップブック『澤田四郎作文集1』貼付の記事による。

【18】松田度:岸田日出男の遺したもの_大淀町岸田家所蔵資料から

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平成29年度第1回なら学談話会・第18回なら学研究会

【講師】松田度氏(研究グループ「吉野の会」代表・奈良県大淀町教育委員会学芸員

【演題】岸田日出男の遺したもの_大淀町岸田家所蔵資料から

会場等

【日時】2017年7月30日(日)14:00〜

【会場】N339教室(奈良女子大学文学系N棟3階)

【参加】20名

開催文

地域の方と「奈良」についての学びを深める、なら学談話会を開催します。

奈良・大和研究、研究者の回顧・再評価をおこなっている、なら学研究会を兼ねて実施します。

今回は吉野熊野国立公園の指定に尽力し、各地の民俗調査を行った岸田日出男(1890-1959)についてです。

近年、存在の知られることとなった岸田氏の旧蔵資料類(貴重な映像を含む)について、その整理・検討にあたっておられる松田度氏にお越しいただき、資料から伺われる岸田日出男についてお話いただきます。

参加記

岸田日出男のことは『吉野風土記』や澤田四郎作の関係で名前は知っていたけれど、彼の知的背景をうかがい知れる貴重な旧蔵資料が遺っているのは、初めて知りました。

整理・検討をはじめたところとのことで詳細はこれからということですが、吉野や奈良を多角的に検証する可能性を秘めているということで、研究の進展がとても待ち望まれるところです。

今回は大正11年(1922)の「吉野群峰」(内務省衛生局)や昭和12年(1937)ころの「熊野路」(鉄道省)など、貴重な記録映画フィルムを見ることができました。時期は違うけれども、あの『吉野葛』の同時代世界をこの目で見られるとは。。。感動。冒頭の画像、紋付きを羽織っている剃髪の御仁は、大台教会を開設した古川嵩だそうで。。。すごいな。

こうした記録フィルムは可燃性なのだそうで然るべきところで適切に保存しなければならないだけれど、奈良県内にその然るべきところがないのだという。また、簡易デジタルではなく、よりクリアな画像となると越えるべき課題は多いのだそう。今回は、そうしたノウハウについての議論も交わされましたが、デジタル化→現物廃棄という短絡的な意見が跋扈するなか、資料保存がその資料の価値をきちんと見さだめ、それを後世にどう托していくのかという「覚悟」と表裏にあることを、あらためて痛感しました。

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澤田四郎作研究パンフレットの公開

研究パンフレットを公開します。以下よりダウンロードしてご覧ください。

『「知」の結節点で 澤田四郎作 人・郷土・学問』(PDF) 

昨年度のプロジェクト経費で調査・撮影した資料をもとに、澤田四郎作の基礎データをまとめたものです。澤田の学問の特質などの内容分析はもちろん、研究カードなど未調査の資料も多々ありますが、研究の始まりとしてのパンフレットという位置づけです。

冊子媒体での発行は予算との兼ね合いになりますので、まずはウェブ上での公開です。

お気づきの点などがあれば、ご教示くださいますよう、お願いいたします。

大阪大谷大学にDVD(澤田文庫画像データ)納品

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プロジェクト経費を使用して撮影した澤田文庫所蔵史料画像のDVDを、大阪大谷大学図書館に納品してきました。ついでに、パンフレット用に書庫内澤田文庫のようすと、澤田四郎作のカードボックスを撮影させていただきました。

大阪大谷大学図書館のご配慮に感謝いたします。ありがとうございます。

約2万枚におよぶ研究カードはいまだ手つかずなうえに、澤田が購読していた雑誌と人脈、私家版の流通、戦地での民俗調査などなど、まだまだ興味はつきません。「研究の始まりとしてのパンフレット」という位置づけで、澤田四郎作研究パンフレットを頒布予定ですが、それを端緒として澤田を多角的に考察してもらえたらと思っています。

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帰途、ツイッターのフォロワーさんから教示いただいた古書店に立ちよりました。澤田四郎作著作があったとのことですが、なんと『ファルス・クルトゥス』が4冊、『ふるさと』、『性の表徴』がありました。

わたしは『ふるさと』を、同僚は『性の表徴』と奈良県吉野の郷土雑誌『吉野風土記』を購入。『ふるさと』にはなんと奈良女子高等師範学校教授の佐藤小吉宛の献呈署名がありました。

情報、ありがとうございました。

【もくじ】『五倍子遺歌集 面影』(昭和52)

澤田四郎作の妻である幸の編集発行。奥付は次のとおり。

昭和五十二年四月十五日印刷/昭和五十二年五月一日発行/五倍子遺歌集 面影/著者 澤田四郎作/発行者 澤田幸/発行所 大阪市西成区玉出東一−九−一四/印刷者 熱見稔

出版の経緯や本書の特徴は、幸による「はじめに」に次のようにある。

先日たま〳〵復員後に出版せられました「異国より帰りて」を読みその中の短歌に心引かれ読み返してゐるうちにこの短歌を集めて想い出のよすがにしたいとこの歌の出版を思い立ちました。短歌は大変好きな人で民俗学の傍ら歌集をよく読んでいましたが戦後自分の作歌らしいものはなく戦前のは聞かずにゐましたので戦争中から捕虜生活中のものばかりで一生通じて一番暗い灰色の苦しい生活の中から詠まれた歌ばかりでございます。

澤田は折口信夫釈迢空)とも親交があって、折口詠歌の色紙が澤田家と大阪大谷大学澤田文庫に遺っている。

澤田の作歌営為は、個人的な趣味嗜好というよりは、学問との関連において培われたものではなかろうか。その学問が民俗学に帰着するのか、それとももっと広い視野に立ってのことなのかは考察を要するが、人や土地や生活へのまなざしは、作歌の心性とパラレルにあるように思う。

かつてなら学研究会で講演された喜夛隆子や、喜夛が師事した前登志夫らに鑑みるに、この問題はもっと考究していく必要があるだろ。

なお本書口絵には、柳田の詠歌「みみずくの 林かくれの しのびねを わがにはとりの あざわらふこえ」を彫りつけた石碑写真が掲載されている。これがいまどこにあるのかは、知らない。

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【もくじ】『沢田四郎作博士記念文集』(昭和47)

1972/昭和47年5月刊行(非売品)。編集は奥村隆彦・原泰根、代表は高谷重夫

本書「論叢」掲載の各論考は、『沢田四郎作博士記念 民俗学論叢』と共通する。

その前後について、本書「編集後記」にある、

この記念文集を手にして頂いて、特に追悼文、或は、論文をかいて頂いた方々には、その編集内容等に御不満を感ぜられる事と思う。編集子としても、決して之が最善とは思って居らないが、熟考の上、大きく追悼文と追悼論叢に分け、更に、前者は御遺族関係の手記を先にし、その次に各人方の追悼文を五十音順にのせさせて頂いた。又、後者も前者と同じく五十音順とし両方共原稿〆切後入手したものは、その次に到着順に掲載させて頂いた。この記念文集は、純然たる民俗学会の発行ではないということも考慮してある。(奥村隆彦記)

から推すに、本書の企画が先にあったようである。

発起人については『民俗学論叢』のページを参照いただきたい。 

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